太宰府・大宰府
福岡の中心部を見た前回 (http://yummmmmy-0604.hatenablog.jp/entry/2013/07/18/143000) の記事よりもかなり引いた視点・福岡都市圏、というくくりで見てみると、Y字型の構造となっています。
これは海と山、という地形的要因によるものです。そして私鉄(西鉄)・JR・地下鉄・幹線道路といった交通網もこのY字を軸に構成されています。
私が生まれてこのかたほとんどの間住んできたふるさと太宰府市はそのYの下の棒をまっすぐ下に行った、ところにあります。福岡のベッドタウンといえる場所です。
太宰府はさらに時代をさかのぼって飛鳥時代にルーツを見る事ができます。
太宰府と大宰府
6〜7世紀におかれた政府機関に「大宰」があります。いくつかあった大宰のうち唯一残ったのが九州の「大宰府」でした。
「663年に白村江の戦い」というのは誰しもが小学校の社会で習ったと思いますが、そのときに防衛のため「大宰府」が今の太宰府跡、太宰府市の場所に移されたといわれています。その後平清盛の時代に日宋貿易が始まり、中心が「博多」へと移るまでは、その権力や実態に波はありますが、北部九州一体をおさめる重要機関でした。
その長い歴史の中でいろいろな事が起こっており、今でも太宰府市には様々な時代の様々な史跡等があります。(今回ははじまりの部分だけ紹介します)
ピンクの四角の部分が政庁があり碁盤の目のような街区が想定されている部分です。
この2つの図からも分かるように、大陸から入ってくると、両脇から山が迫ってきて、最も平地が狭くなった部分に「大宰府政庁」がおかれたという事ができます。
(黄緑の点線は今は削られて斜面住宅地となっているけどももともとは山だったところ)
都市的なスケールで地形を見て考えていたという事が分かります。自然の防壁となっているわけです。
歴史的な史書のうち古代の古文書では「大宰府」という表記が使用されているため、遺跡の名前などは「大宰府」。また、政庁や機関そのもののことを指すときも「大宰府」です。
ただ、平安末期から鎌倉初期のころから「太宰府」という表記が見られ始めます。そのため、現在の市名は「太宰府市」。また有名な「太宰府天満宮」もこちらの表記です
これは博多と福岡以上にあまり何も考えずに使われる事が多いのですが、年代が下がるほど点がついた「太宰府」になるということのようです。
そして1960年代に調査などが本格的にはじまりようやく、それを機会に、
古代の役所関連は「大宰府」、場所を示すときは「太宰府」に区別統一する事になったそうです。
また、その守りを一層固めるために築かれた「水城」という土塁があります。今でも巨大な緑となって残っています(矢印のところ)。
土塁の横に堀もあって、大宰府が攻められたときの最後の防御線として築かれた巨大国防施設なんです。
卒計ではこの水城を題材に扱いました。
なんか写真がアップできなくて、格闘したんですけど今日はあきらめます・・・
またの機会に・・・><;